20世紀の初め頃、トゥアレグ族の酋長モカメド・フェルゴウは盾と刀だけを持って単独でライオンを狩ったことで勇名をはせた。彼はライオンがいる林に近づきながら、1歩ごとに膝を盾にぶつけて音を立て、同時に「エーレ! エーレ!」と叫んだ。その声と音に驚いてライオンはブッシュから現れた。酋長はライオンに盾を向けて跪き、ライオンがそれに一撃をくわえる瞬間、持っていた刀を振るってライオンを倒した(グッギィスベルク、1961)。

 ライオン狩りに成功したマサイ族は、盛大な宴を催す。そこで戦士 moranたちは Engilakinoto と呼ばれる派手なダンスを繰り広げる(magicalkenya.com)。
 ニジェールのトゥアレグ族は、槍、刀、盾を携えて馬に乗り、同じように武装した徒歩の兵士とともにライオンを狩る。騎手たちはライオンを見つけると、ライオンを取り巻き、まずライオンをじらすために1人ずつ近づき、続いて同時に槍でライオンを突こうとする。ライオンは1頭のウマに跳びかかるが、騎手はその瞬間に拍車をかける。乗り手の背後は動物の皮に藁を詰めたクッションで保護されており、ライオンはそれを掴み、引きずりおろし、引き裂く。これを合図に他のメンバーが槍を投げる。
 ライオンが家畜の群に大きな損害を与えた時、トゥアレグ族はライオン狩りを行った。彼らは休んでいるライオンのできるだけ近くまで這って近づき、槍を投げる。かなりしばしば、数人が傷を受け、殺されたりもする。

 ナロク地方に住むブルコ・マサイ族の間では、死んだライオンの尾を掴むことで自分の勇気を示し、頭飾りとしてライオンのたてがみを手に入れる。ライオン狩りでは、最初にライオンの尾を握った戦士が英雄となる。死んだライオンのたてがみは彼のものである。エルモラン(若き戦士)たちが村へ凱旋する時、彼はライオンの尾を槍に突き刺して運ぶ。
 タンザニア北部のイルキソンゴ・マサイ族はライオンの尾を掴もうとはしない。最初に槍を投げた者がライオンのたてがみを手にすることができる。

 ナンデ族の戦士たちは、槍と盾で武装して、家畜を襲ったライオンを狩った。ライオンを取り囲み、前もって選ばれた1人が盾で身を守りながら前進し、槍でライオンを突いて地に伏す。ライオンがその男を捕らえようとする間に、他の戦士が押し寄せて殺す。この最初の攻撃のために選ばれた戦士が負傷する可能性が高いのは当然だろう。著名なハンターの F. C. セルースはこの役目に5度も選ばれた男を知っている。彼は1回は肩を、2回は太腿を咬まれている。

 マサイ族やナンデ族が使う槍の刃は、幅が狭く長さは90cmもあり、短い木製の柄と長い鉄製の石突きが付いている。この槍はかなり遠くまで投げることができ、簡単にライオンを貫く。

 ウガンダ西部のアルバート湖の発見者、サミュエル・ベーカーはウガンダ北部で大がかりなライオン狩りを見たことがある。多数の勢子がライオンを大きな網に追い込もうとした。しかしライオンはその網に飛び込もうとはせず、飛び越えようともしなかった。ライオンはぐるっと向きを変えると原住民の列に暴れ込んだのだった。そして5人にひどい傷を負わせて逃走した。


 全てのアフリカ原住民が勇敢でライオン狩りに熟練していたわけではない。ライオンが村の周囲をうろつき始め、安全が脅かされると村の全住民が別の地に避難してしまうところもあった。

 フランスの探検家、エドワード・フォアはローデシアの原住民が槍と銃で武装して試みたライオン狩りが手ひどい失敗に終わったのを見ている。
 ライオンを包囲することに成功した彼らは、72丁の銃で一斉射撃を行った。その全体の音響は狩というより激戦のようだった。連続射撃が止み、煙が次第に薄れ、……11人の原住民が倒れていた。彼らは程度の差こそあれ、銃弾に撃たれて傷ついていたのだ。ライオンは彼らの陣を破って無傷で逃走していた。

19世紀のロシアでは、このようにしてヒグマ狩をおこなっていた(Ricciuti, 1976)。
 原住民による勇壮なライオン狩りはいつ頃まで行われていたのだろうか?
 ケニヤに26年滞在し、アフリカで最も多くの野生動物を殺した1人にあげられる J.A. ハンターはマサイ族のライオン狩りは既に1920年代には見られなくなったと書いている。グッギィスベルクは50年代にもまだ行われていたという。バートラム(1978)は現在ではこの種のライオン狩りは禁じられているので、めったに行われないと言っている。小原秀雄氏(1990)は最近やめになったとしている。ライオンを狩ることは英雄になるための通過儀礼だったが、ライオンが少なくなったため、この儀式にこだわっていては戦士がもう生まれないからだという。
 マサイ族のライオン狩 olamayio はもはや行われていないことになっている。ケニヤ、タンザニア両政府によって禁じられているからだ(bluegecko.org)。
 しかしマサイ族が家畜を殺された時には、禁令に反していまだにライオン狩りを行っているともいわれる(forests.org)。

 かつてカリフォルニアに1本の刀でハイイログマをしとめた男がいた。その男 Ramon Carrillo は命知らずの若い男で、アメリカ人の散弾銃で蜂の巣にされるまで負け知らずに戦い続けた。彼の属する一行がクマと遭遇したのはサンタバーバラからロサンゼルスに向かう途中だった。
 ラモンは常に身につけていた刀を振り回しながら、ダンスの名手のように前進した。驚いたクマは立ち上がって身構えた。不適な笑みさえ浮かべながら、カリフォルニアの若い男は熟練した闘牛士の優雅さで、剣でクマを突き、横へ動いてクマの攻撃をかわしていた。ほぼ1時間立ち回ったラモンは心臓への一突きでとどめを刺した(Lanier Bartlett)。

 これは明治時代の北海道、北見沿岸の一漁村でのできごとである。
 村を流れる小川は、生活の場として大勢が利用するため、おこぼれを狙ってクマも出没、漁民を脅かしていた。一人の雇われ漁夫が、クマを退治してやろうと、日本刀と唐傘を持って、件の小川に勇んで出かけた。思惑通りクマがいて、残飯をあさっている最中だった。
 それを見た漁師が大声を出すと、クマもものすごい唸り声をあげて向かってきた。彼は唐傘を開きクマの眼前に突き出した。驚いたクマは後足で立ち上がった。この時とばかり、漁師はクマの心臓めがけ、渾身の力で刀を突き出した。クマは一撃で倒れたという(木村、2001)。

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