あらゆる人食いライオンの物語のうちで、1898年に起こったツァボの人食いほど有名な事件はない。ウガンダの鉄道建設で、ツァボ川に橋をかける工事に際し2頭のライオンによって引き起こされた恐怖は9ヶ月も続き、28人のインド人人夫と同数以上の原住民が殺された(一説では135人が殺されたという)。
 保線区の担当技師、J.H.パターソン大佐によって射殺された2頭のライオンはごく短い鬣を持った雄だった。シカゴのフィールド博物館にこれら2頭の剥製が展示されている。先に撃たれた方は全長295cm、肩高114cmと発表されている。後に撃たれた方についてはなぜか記載がない。

 フィールド博物館にはもう1頭の人食いライオンの剥製がある。1991年、ザンビアの Mfuwe でたてがみのない大きな雄のライオンが人を襲った。
 Maneater of Mfuwe と呼ばれたこのライオンはその年の9月初めに Wayne Hosekによってしとめられた。全長3.2m、体重約230kgもあった。
 1998年の9月にWayne は剥製をフィールド博物館に寄贈した。

 ウガンダ鉄道建設にまつわる人食いライオンはツァボの2頭だけではない。1900年には1頭のライオンがキマ駅に現れ一人の鉄道員を殺して食べた。鉄道公安局長のライエルは二人の仲間とともにこのライオンを撃とうと停めてあった客車の中で待ち伏せたが、ベッドで眠り込んでしまい、侵入してきたライオンに殺され、連れ去られた。
 床に寝ていたもう一人はこのとき、死体を運び出そうとするライオンの下敷きになっていた。彼は無傷だったが神経をやられてしまっていた。
 キマの人食いライオンは鉄道員が仕掛けた罠で捕らえられ、数日間見世物にされた後射殺された。このライオンの牙と爪は先端が丸くなっていた。年取ったライオンだったのだろう。

 モザンビークのベイラとローデシアのソールスベリとを結ぶ鉄道が建設されていた時にもライオンによって30人以上の原住民が殺された。ここで働いていた人々は、しかし恐慌状態には陥らなかった。
 ライオンがひどく暴れまわっている時、彼らは槍をもって人食いを仕留めに出かけた。

 ツァボの人食いはたてがみの発育が悪く、一見雌ライオンのようだった。 Mfuwe の人食いはほとんど生えていなかった。雄ライオンはたてがみがあるのが普通だが稀にホルモンや遺伝子の関係で、たてがみが生えない個体がいる。
 東京・上野動物園にはかつてたてがみのない大きな雄がいた。たてがみのある雄と同じ檻に入れられていたので観客には雌と思われていたらしい。もっともこれは去勢された個体だった(小原、1990)。
 よく黒いたてがみを持った大きな雄といわれるが、たてがみの発育が悪いからといって身体の発育も悪いということはない。今泉吉典氏はかつて移動式の動物園でたてがみのない大きな雄ライオンを見て、檻の外から注意深く測定し、肩高1.1mあったと「動物の事典」に書いておられる。


Chiengi Charlie
 ザンビアとザイールの国境付近、ムウェル湖の東側、チエンギにたいへん毛色の淡い大きなライオンが現れた。1901年1月のある日の午後、そのライオンが村から一人の婦人をさらったというニュースが駐屯地に入った。これが後にチエンギ・チャーリーとして知られるようになった白い人食いライオンの最初の犯行だった。
 数ヶ月の後、イギリス人の行政長官が狩猟隊を組んでライオンを待ち伏せ、仲間となって一緒に殺しをやっていたもう1頭のライオンと共に、チエンギ・チャーリーを射殺した。年をとってたいへん大きく、実に淡い毛色をしたライオンだった。

ムピィカの人食い
 20年後、ザンビアのムウェル湖付近ではチエンギ・チャーリーの後継者とでも言うべきライオン、モソロ・モンティが出現した。ルーアングワー渓谷周辺をうろつき、えさとなりえる野生動物がたくさんいたにもかかわらず、ライオンはあらゆる罠を避け、たくさんの人を殺し、ついには足跡も残さずに姿を消してしまった。

マジリの人食い
 1880年代にザンベジ川の支流域の住民を恐怖に陥れた。人殺しの合間にスイギュウを殺したりする元気なライオンだった。このライオンは原住民の数本の槍に貫かれて死んだ。
 人食いライオンには、年をとっていたり、怪我をしていたりしてすばやい野生の動物を捕えられなくなって、動きが鈍く抵抗力もない人間を襲うようになった個体も少なくないが、また並みのライオン以上に壮健なものも多い。A. St. H. ギボンズ少佐がローデシアのバロッツェランドにおいて撃ち殺した人食いライオンは、全長299cm(まだ乾いていない毛皮で測って370cm)、肩高109cm、胸囲が125cmの黒い見事なたてがみの雄だった。

ムゴーリの悪魔
 1958年タンザニアのムゴーリ付近に歯の折れた1頭のライオンが現れた。折れた牙では大型獣を倒せなかったようで、ヤマアラシを捕えるようになり、多数の針の攻撃を受けた。そして人を狙う他はなくなってしまった。
 ほぼ1年にわたって人食いが跳梁した。ある村などは300人の住民が避難するに至った。猟区管理官が2日間、100キロの追跡を行い2発撃ってライオンを仕留めた。この死体は幾つかの村で展示され、原住民に悪魔の死を確信させた。

 Guggisberg(1963)によれば、マラウイで1頭の放浪ライオンがほぼ1ヶ月の間に14人を殺した。
 モザンビークでは、1938年9月に射殺されるまでの8週間に22人を殺したライオンがいた。
 そして1943年10月、ローデシア北部で射殺された別のライオンは40人を殺している。
 1960年タンザニアの北部で年取った雌のライオンが農家を襲い、原住民の一人を殺して食べたが、その後罠にかかって殺された。

サンガの人食い
 ライオンが厄介なのは、人食いの習慣が群全体に波及することだ。特に雌ライオンが人食いになるとその子供も人食いになる可能性がある。そうでなくとも群で生活するのが普通のライオンは、次々と人食い仲間が増えることがある。そのため人食いライオン事件は長く続く。
 ウガンダのサンガ地域には何年もの間にわたって、幾度となく人食いライオンが現れた。20世紀の初めに、リンダ−ペスト(ウシの伝染病)の蔓延を抑えるため、猟獣はほとんど一掃された。そのためにライオンはウシを襲うようになり、やがて人間狩りに発展した。
 ライオンたちは夜な夜な村に入り込み、住居に侵入しようとさえした。また国境を越えてくる移住労働者が野宿をしている時にもライオンはやって来た。彼らのうちいったい何人が犠牲になったかはわからない。サンガの人食いの1頭は少なくとも84人を殺している。別の1頭は44人を殺した。
 サンガの人食いは行動範囲を拡げていった。1925年にはビクトリア湖北岸のエンテペ地方にも現れた。そのうちの1頭はゾウの群の後についてまわった。ゾウが農園に入り込めば、人々は家から出てゾウを追い払おうとすることを知ってるようだった。その騒ぎの中でライオンは人をさらうのである。この地域の恐怖が終わるまで、ライオン狩りが続けられたが、サンガの人食いは総勢17頭を数えた。

Njombe Man-eaters
 ニヤサ湖北岸のタンザニア領内で1932〜1947年にわたって、一つの群のライオンが1000〜1500人を殺して食べたといわれる。1年あたりほぼ100人が殺されたのだ。ライオンは3、4のグループに分かれて1,500平方マイルの地域で人狩りを行った。時には全員で一つの村を襲ったこともあった。
 この人食い集団に止めをさしたのは George Rushby(1965)で彼はこのために15ヶ月を費やした。彼は17頭のライオンを撃ち、Njombe 地域の平和を回復した。

1936年、アメリカのハンター、Lennox Anderson が南アフリカのトランスバールでしとめた人食いライオン、体重なんと313kg !

 南部アフリカ・マラウイの国立公園周辺で、飢えたライオンの一群が住民を次々に襲い、2002年末からの犠牲者が9人に達した。野生動物の保護区を抜け出した群れで、南部アフリカ一帯で続くひどい干ばつで獲物の動物が減ったためではないかとみられている。(このニュースは松本伊代吉さんから教えていただきました)
 上と関連するニュースを iafrica.com が伝えている。それによると2003年1月1日、マラウイの国立公園近くで1頭のライオンが49歳の男性を殺し食べているところが村人に発見された。村人達の姿を見るとライオンはその場を去ったが、残っていたのは頭と腕の一部だけだった。
 さらに翌日、今度は40歳の女性が殺され、頭だけが残っていた。当局はライオン狩りを開始したが、数百人の近隣の住民には外出の際にはグループで行動するように警告した。

 2004年4月、タンザニアで少なくとも35人を殺したとされるライオンが射殺された。このライオンは歯痛に悩まされていて、狩猟の対象をスイギュウから肉の軟らかい人に切り替えたと考えられている。35人というのは1頭のライオンによる人食いとしてはレコードクラスだという。ライオンはタンザニア南部・ルフィジ川流域の八つの村を20ヶ月にわたってうろつき、標的を探していた。

 タンザニアでは人食いライオンは今なおめずらしくはないそうで、毎年200人ほどが野生動物に殺されているが、その加害者の3分の1はライオンである。

 このライオンの頭骨を調べたところ、1本の臼歯の下に大きな腫瘍が見つかった。これが強い歯痛を、特にものを噛む時に、ライオンに与えていたと見られる。そこでライオンはより捕らえやすく、噛む時の痛みも小さい人を獲物に選んだようだ。3歳半くらいのまだ若い雄だった(BBC)。

 エチオピアの警察当局は2005年9月20日、同国南部で8月に住民がライオンの群に襲われる事件が繰り返されたと明らかにした。8月中に住民20人がライオンに襲われて死亡、10人が負傷、さらに少なくともウシ70頭が食べられたという。
 ライオンは2〜4頭のグループで日中に複数の村を襲撃。民家に押し入り、牛の世話をしていた牛飼いや住民を襲ったという。警察は「ライオンは食べ物を求めて茂みから出てきた」とコメントしている。このため同地区の住民1000人以上が避難した。襲撃の多発したギベ川流域では過剰な森林伐採による干ばつが続き、野生動物のえさが減少していると説明している(CNN)。

 単独のライオンで最も多くの人を殺したのはおそらく、旧タンガニーカで狩猟監視員をしていた C. J. P. Ionides が仕留め損なったライオンで90人以上を殺したといわれる(George W. and Lory Herbison Frame, 1976)。

 一般にライオンは寝ている人を襲う場合、その頭を掴もうとする。爪が頭蓋を通った場合にはその人は即死である。しかしライオンは肩をくわえて生きたままの人間を引きずっていくこともある。追跡隊が組織され、ライオンを追っても暗くてよく見えず、結局ハンターが歯軋りしているすぐ近くで、犠牲者が生きたまま食べられてしまった例も幾つもある。
 もしライオンが邪魔されずに、その犠牲者を食べるままにしておくと、ライオンはしばしば頭だけとか、足の裏だけを残して食べ尽くしてしまう。ある例では銃剣とブーツだけが残されており、ブーツには脛と足が残っていた。


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