横浜国大の故鹿間時夫教授は、ハーバード大学に招かれた時、レーマー博士に「一番興味ある日本の古脊椎動物は何ですか?」とたずねた。レーマー博士は「デスモスチルスしかありませんよ!」と言下に答えたという。終戦後間もない頃、日本に進駐してきた米軍が、岐阜県から発掘されたデスモスチルスの頭骨を高額で買い取ろうとしたことがあった。同じ頃、北大理学部にある全身骨格にもアメリカ側は買収の手を伸ばしてきた。日本の古生物学研究の分野で、世界のトップレベルにあるのは、このデスモスチルス(及びパレオパラドキシア)だけといっても過言ではないのだから、もちろん買収は拒否された。

 デスモスチルス(束歯獣)は中新世(1300−1900万年前)に日本、ロシア、北アメリカの太平洋岸に棲んでいて、日本では数多くの化石が知られる。海岸に棲み、カバのように泳ぎ、岸に上がっては草や若葉を食べていたらしい。
 最初の化石は1876年にカリフォルニアで見つかった。恐竜の発掘で有名なマーシュがその特徴ある臼歯の形からデスモスチルス Desmostylus hesperus と命名した。臼歯は円柱を束ねたような特異な形をしていた。他には1個の背骨だけだったので、全身の形がわからず、歯の形からカイギュウ類に近いと考えられた。
 1933年サハリンで立派な骨格が発見され、従来の見解が改められた。北海道大学理学部の長尾博士の構想によって、カバをモデルにして復元されたが、組立に当たった剥製業の信田氏は「本当はもっと腰を下げてはいつくばったカエル型でなければならない」と考えていた。この標本のレプリカが大阪自然史博物館にある



 クルテン(1971)は上の図と共に、デスモスチルスは非常に大きくてどっしりした動物で、カイギュウ類と違ってよく発達した四肢を持っており、たぶんアシカ類と同じような様子で陸上を動き回っていたのであろう、と書いている。

 日本では40箇所余りの産地からデスモスチルスの化石が発見されているが、その半分以上は北海道で、四国や九州からは出ていない。今のところ南限は岐阜と島根を結ぶ線あたりである。当時は現在よりもすこし暖かかった。
 デスモスチルスの復元はカバやサイをベースに考えられたが、後にはワニやトカゲのように肘や膝を体の横に張り出し、腹を引きずりそうな体型に変わった。北網圏北見文化文化センターには、北大と同じ化石を元にした、犬塚則久氏の復元によるもっとはいつくばった姿勢の組立骨格がある。

 アメリカのオレゴンとサハリンで見つかったデスモスチルスの頭骨は、後半部分だけの不完全なものだった。1902年に岐阜の戸狩で産出した頭骨(国立科学博物館所蔵)は前半だけ。そしてこれらはみな下顎はほとんど残っていなかった。

 1977年に北海道の稚内にほど近い歌登から完全な頭骨が、全身の骨と共に発見された。これは3本あるはずの大臼歯の内、一番前の第一大臼歯しか生えていない子供のデスモスチルスだった。

 犬塚則久氏はこの歌登骨格(体長1.7m)のミニチュアモデルを作成して体重を290kgと推定した。これから体長2.7mあるサハリン産は1200kgと算出している。デスモスチルスの部分的な化石の中にはもっと大きいと考えられるものがあり、サハリンの標本より30%ほども長い腕の骨も見つかっている。これは2600kgもあったと推定される(犬塚、1989)。
 これはカバよりも相対的に重い体格をしていたことを示している。ウガンダ産のカバの標準的な体重は、体長2.7m(8歳)で915kg、3.6m(雄、45歳)で1995kgである。デスモスチルスはこんなに重い体を、ワニのように開いた足で支え、歩くことができたのだろうか。

 犬塚氏は、ワニのような格好をした哺乳類、デスモスチルスはその方が都合がよい環境に生息していたと考えている。水が動く所−海辺の波打ち際−で倒れないように踏ん張る必要がある所に棲んでいたというのだ。デスモスチルスの足は、4本の指が大きく開いて地に付く面積が広くなっており、下が軟らかい砂地でも安定する。デスモスチルスは潮が満ちてくれば腹が水に浸かるような遠浅の砂浜で長い時間を過ごしていただろうという。


北網圏北見文化文化センターにあるサハリン・気屯標本

東京大学解剖学教室にある歌登標本

 デスモスチルスは現在のどの哺乳動物とも似ているようで似ていない。上下の門歯(4本)は長く牙となっている。この牙で水草を掘り起こして食べていたのだろうか。発見当初から注目されていた円柱を束ねたような独特の臼歯()は名前(デスモスチルス)の由来となった(それ故束歯獣−タバハジュウ−と呼ばれる)。
 サイに似た肩胛骨、マストドン(古い型のゾウ)やバクに似た頭部。極めて特異な腕骨や骨等哺乳類中特殊で類がない(鹿間、1979)。有蹄類、長鼻類、カイギュウ類いずれにも属さず、束柱類という独立した目に分類されている。


津山骨格のレプリカ−島根大学山陰地域研究総合センター展示室

 岐阜県からは1950年に、デスモスチルスのなかまでより原始的なパレオパラドキシア Paleoparadoxia tabatai が見つかっている(幼体)。発見者は岐阜市立多治見高校の2年生だという。そして1964年にはアメリカのスタンフォード大学原子核研究所の工事現場で成体の骨格が発見された。

 1982年には岡山県津山市の中学3年生が一人で10日ほどかけて100個近くの化石を収集した。この少年は自ら図鑑を調べてパレオパラドキシアかもしれないと見当を付けていた。駆けつけた犬塚則久氏により復元された骨格が津山郷土博物館に展示されている。やはりデスモスチルスのように四肢が体の側方に強く張り出し、腹部を擦るように姿勢を低くしている。おそらく同じような生活をしていたと思われる。

 デスモスチルスと同様な臼歯を持つパレオパラドキシアは長野から広島に至る地域から産出している。全身骨格はアメリカの1体を含めて5体である。体長1.8m前後で、デスモスチルスと共に束柱類を構成している。

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